私が思うHey! Say! JUMP

じゃんぷ担として早5年目となるわけですが。


最近もやもやすることがあって。

はじめの頃はコンサートそのものを純粋に楽しんでた気がする。

もちろん、いまでも良席であればあるほど嬉しいし、構ってもらえたら嬉しいし、、っていう思いはあるけど。


でも、私がじゃんぷ担になりたい、って思ったきっかけは間違いなく「コンサートが楽しい!!」って思ったからであって。ファンサを貰えたから降りたわけじゃない。


でもいまはどうなんやろう???


I/Oドーム公演。

席運に恵まれずほぼ全公演天井席。


ほんまにモチベーション上がらんくて、楽しくなさすぎて、私なんのためにここまで来たんやろって後悔の念に苛まれた。


このときに、「なんのためにHey! Say! JUMPのコンサートに来るのか」を改めて考えさせられるきっかけをもらえた気がする。


結論は簡単。わたしはHey! Say! JUMPがすきなわけではない。中島裕翔がすき。たたそれだけ。


降りてすぐのころはHey! Say! JUMPまるっとまるまるが愛しいと思えてた。すまーとも、かーにばるも、Hey! Say! JUMPそのものがほんとに可愛くて仕方なかった。

横アリオーラスで314のやまけとで泣いたこともあったなぁ、なんて。今となってはやまけとで泣くなんて絶対に!!!810億パーセントない!!!!!!(笑)


じゃあなんで、いま、こんなにもグループが推せないのか。


きっと向上心がないから。

いや、きっと向上心は持ってる。でも、私自身にはそれが感じられなくなってきた。

好きになった頃はそのままのじゃんぷがすきだった。あぁ、こういうグループなんだな、わちゃわちゃしててかわいいなー、って思ってた。


でも、その姿は何年経っても変わらなかった。

変わらないことは良いことでもあると思う。


でも、グループとして、なーんとなく存在してくれて、なーんとなく決まったからアルバム出して、コンサートして、なーんとなく与えられた仕事をこなす。

そんなふうに私の目にはうつってた。


個々でそれぞれ色々な面で成長してるっていうのは本当に感じる。


演技、トーク、バラエティ力、

それぞれがそれぞれに輝ける場所とか仕事を見つけて頑張ってる姿はすごい応援したくなる。


でもグループに帰ってきたときに、それが還元できてるか。

「誰かがやってくれるでしょ、」「だって俺ら家族みたいなもんじゃん」って、お互いがお互いに甘えすぎてるように感じる。


与えられた仕事をこなすことがまず1番に大切なことやと思う。

でもその次は???与えられたことだけで満足するの?


「ドームツアーがしたい」「47都道府県まわりたい」


うん、やってほしい。叶えたい。

で???そのために何かしてる??この夢は誰が叶えさせてくれるの?事務所?企業?おたく?


違うよね、まずは自分たちのチカラだよね?


初の単独カウコンだって、あれはきっとほかのグループの埋め合わせ。

その翌年は?できなかったよね?年末年始公演はできたけど。

それももしかするとみんなが頑張ったからこそ勝ち取れたのかもしれない。わたしは本当のところは分からないから、私自身が知ってる表面上のことしか言えないけど。


ほかのグループが次々と仕事が決まっていって。

少なくともおたくは劣等感とか焦燥感をすごく感じています。

何も仕事がない現状に恐怖さえ感じています。


アイドルは仕事をしてなんぼ。人前に出てなんぼやと思う。

その人たちがもう何ヶ月もなにしてるのか分からない、次の現場がいつなのかすら全く発表もない。


それってどうなの?グループとしてもっと高みを目指していきたいなら、おたくを離れさせないようにしてよ。もっとときめかせてよ!


現場がない、仕事がない如きで離れるなら本当のファンじゃないし、離れるのは勝手。

きっとそういう意見が大多数なんやとは思うけど。


すきだからこそダメなところはダメって言いたい。

もっとグループとしてがんばってほしい。

だってそれぞれに絶対才能があるから。もっともっと上を目指せるから。

今の現状に満足しないで。数字だけ、目先のことだけに満足しないで。


ドームツアーができた!席が埋まった!


だからなに?55千人満足させることができた?

たのしかったー!またきたい!!!って全員に思ってもらえるようなパフォーマンスができた?


この仕事にきっとゴールも正解もない。

ただ上を目指し続けないとファンは付いてこないよ。


あなたたちのしたいことはなに?

目指しているものはなに?


それをファンにも伝えて欲しい。一緒にその夢を現実に変えれるように努力させてほしい。


大事なのは思いをことばにすること、行動を起こすこと。

芸能界の仕事のやり方なんて全く知らないけど、でも仕事は自分で取りに行く。

これはどこの世界もきっと同じ。


まだもう少しだけHey! Say! JUMPのおたくでいたいっていうわたしのエゴもあるけど。

追いかけたい。ついて行きたい。応援したい。

って心から思えるグループであり続けてください。

アイドル。

KAT-TUN2年の充電期間を経て、ようやく再始動が決まった2018年。


けど嬉しいばっかりのできごとばかりではなくて。


林くんのグループ脱退

すばるの脱退、退所

山口くんの無期限謹慎


なんか、こういうことがあるたびに、本当にアイドルとして存在してくれていることだけでも奇跡なんやなぁって、すごい感謝の気持ちがふつふつとわいてくる。


一人の人間として、男性として人生を歩む中で、アイドルでい続けるっていう選択はなかなか難しいというか、相当な覚悟が必要なんだろうとは思う。


いいお給料が貰えて、きらびやかな世界のなかにいて、チヤホヤされてっていい面だけ書けばそうかもしれんけど、アイドルとして常に周りの目を気にして生きないといけない。


本当の自由な自分の時間、行動は制限される。

一般的なしあわせとされる「恋愛」「結婚」「子供を授かる」という行為はご法度とされる。


いい面ももちろんありながらも、わたしみたいな一般人が考えつくだけでも大きすぎる代償の上に成り立つ世界なわけで。


いつだって彼らには「辞めます」と言える権利がある。

今自分が持っている何もかもを捨てて自分の道を歩む権利がある。


それは芸能人とかアイドルに限らず、一般人のわたしたちにとっても言えることではあるけど。


そんな中で、「アイドル」として存在するという選択をし続けてくれているわたしのだいすきなひとたち。


もう感謝しかないし、本当にありがとう、わたしの心の支えとして存在し続けてくれてありがとうの気持ちでいっぱい。


いつ消えてもおかしくない儚い存在だからこそ、今の姿をわたしなりに全力で応援したいし、後悔のないようにしたい。


いつまでおたく続けてんのかなぁなんて自分で自分がいやになったりするけど。

だけど今はまだこのすきな気持ちを胸に、自分がやりたいようにやっていきたいと思う次第です。


今しかできないことしよう!!!

ジャニヲタのはじまり。

ふと考えた。わたしのジャニヲタの歴史ってどんなんなんやろ、って。きっとこれから年老いて、今は明確に覚えていることも時間が経てば曖昧な記憶になるんやろうな、と思ったのでここに書き残しておく。


①2002年9月 昼ドラ「ドレミソラ」で内博貴に出会う。
当時5年生のわたしがなぜか見ていたドラマ。そこに出ている1人の男性に惹かれる。調べると関西ジャニーズの内博貴というらしい。それが全ての始まり。
周りの友達にMyojoを見せてもらったりしてジャニーズについて興味を持ち始めた小学5年生。

Ya-Ya-yah 薮宏太に出会う。(2002)
当時小学6年生。雑誌を見てる中で、「あ、なにこの子かわいい」と幼心なりに感じたのが当時天使でしかなかった薮宏太。わたしが初めて「担当」として認識したのはたぶん薮宏太。そして初めてファンレターを書いたのも薮宏太。友だちと一緒にキャハキャハ言いながら書いたファンレター。内容は覚えてないけど、たぶん「年上に見えないぐらいかわいいです!」って書いた気がする(笑)

③NEWS結成。内博貴担⇨草野博紀担
内くんの記憶も薄れかかった頃にNEWS結成。ということでまぁとりあえず内担に。だからと言ってどうするわけでもなく、CDが出れば1枚だけ買って、MDに落として聴き込む、ぐらいしかしなかったたただのファンでした。
そして、一番仲の良かった友だちが小山担としげ担やったから、自然とK.K.Kityに目が行き、いつの間にやら草野担。今思えばなにが良かったのか、さっぱりわからない顔ですが(笑)でもやっぱり中身かなぁ〜面白いのってぃーのことがすきでした。

KAT-TUNといういけすかないGについて意識し始める。(2004年)
内担になったあたりからKAT-TUNという存在に気付き「なにこいつら」「めっちゃチャラいやん」「かっこよくないのになんなんこいつら」ととにかくボロクソ。めちゃくちゃに言ってたのに友だちの一言で状況が一変。
「でもうち、亀梨か赤西なら赤西やな」
「いやいや、それなら亀梨やろ!!!!」
自分がそんな反論をするなんて思いもしなくて正直驚いたけど、そんな風に見てたんやなって思うと笑える。ここから少しずつKAT-TUNについても気になり始め、亀梨くんを副担として掛け持ちを始める。

⑤2006年1月 自担の謹慎事件、無期限活動休止により本格的に亀梨担へ。
中1〜2にかけて、徐々にNEWSよりもKAT-TUNに気持ちが傾き始める。きっと彼らの魅力にやっと気づけるようになったんだろうな、と。
そして2004ごくせん。いわゆるごく出と言われる永遠の新規というファンが激増。右を見ても左を見ても「じんくんかっこいい」「かめちゃんかっこいい」の世界。そんな中「わたしは前から好きやったし!突然出てくんなや」って言う変なプライドみたいな感情でいっぱいでした。
そんな中、2005年には内くんの、2006年には草野博紀の謹慎事件が起こり、もうNEWSに応援したいと思える人はいないな、と思って副担だった亀梨くんが見事担当に昇進。

⑥〜2013年超絶亀梨担
そこからはもうをたくとしてのスキルが右肩上がり。
初めてのコンサートは高校1年生の時。
「cartoon KAT-TUN Ⅱ YOU」初めてのコンサートでアリトロ通路横というとんでもない席で、夢のような時間を過ごして、一生この人たちについていくんだ…!とをたくとしての覚悟を決めた公演。
赤西の留学、脱退など死ぬほど苦しくて泣いたこともあったけど、でも誰よりも何よりもKAT-TUNというグループがだいすきで、そんなじぶんのこともだいすきやった。KAT-TUNをすきでいられることが、応援できることが、自分自身の誇りでした。

⑦Hey!Say!7結成
2007年、期間限定ユニットとして組まれたHey!Say!7。KAT-TUNのツアーのバックにもついてたんやけど、なんせわたしは嫌いだった…中島裕翔が…!!!!
なんやねんこのいけすかんクソガキwwwwって雑誌初登場したときからずーーーーっとけなしてたから、そのままその気持ちが大きくてうわ、ゆーとやんwwww的存在。まさか数年後担当になるなんて思いもしなかった(笑)
そんな中惹かれたのが高木雄也。普通に顔がすきでした。担当、とまではいかないけど写真とかも当時何枚か買ってるし、普通にファンでした。ちゃっかりCDも買ってるし(笑)そのまま高木の顔がすきな勢いでHey!Say!JUMPのデビューシングルもなぜか買ってるんよねぇ(笑)

中田大智横山裕への寄り道。
2007年春、亀梨和也主演舞台DREAM BOYS大阪公演。そこで初めて関西ジャニーズの中田大智を生で見る。生で見るとすごくかっこよくて、ダンスが上手で、ここから関ジュなら大智!の方程式が完成。…悲しい辞め方になってしまったことは未だに心の傷になっているのであまりえぐらないでほしいです…(笑)
2007年秋には、赤西仁主演ドラマ有閑倶楽部に出て横山裕…というか、菊正宗清四郎にどハマり。エイトにも興味を持ち始め、多分この頃はワッハッハーでの露出が多かったかな?もう降りるんじゃないかと思う勢いですきだった横山くん。でもすぐに冷めました。いまもエイトに関しては無関心です。すきでもないしきらいでもないし、あぁ、エイトね、的立ち位置。ただ存在してるおもしろいおっちゃんたち。
つまるところ、横山裕がすきなんじゃなくて、きっと菊正宗清四郎がすきだったんです、わたし(笑)

⑨2010年夏、初めての亀梨くんとの握手。
これを語らずしてこの記事は成り立たない。それぐらいじゃにをた人生で大きすぎたイベント。
アルバム購入者特典に見事当選、まさかまさかの亀梨くんとの握手。夢みたいで、この握手が終わってから約2週間毎日学校で泣いててクソ痛いをたくでした。当時周りにいてくれてた友だちには本当に申し訳なかったと思っております…

(10) 2012年 CHAIN
初めてわたしが遠征、というものを本格的にしたツアー。新潟石川大阪福井名古屋東京。
この頃がわたしの中の中丸熱ピークでまじで担降り考えてた。でも名古屋デビュー日自チケ当選して、まさかの縦花真横。かめなしくんからの生まれて初めてのファンサ。もうなにもかもが夢みたいな時間で、だいすきでたまらなくて、私の全てはKAT-TUNのために捧げるんやって本気で思ってた。本当にだいすきでたいせつでどうしようもなかった。

(11) DREAM BOYS 2012
結果的に亀梨くんの最後のどりぼとなった2012年。なんとなくそんな気はしてたから、後悔のないように…!と毎週大阪から帝劇に通い妻。自チケで4列ドセンにも入れて、もう何も言うことはなかったです。
一部しか入る予定なかった日、かめなしくんがすごく体調悪くて。雑技団の技がうまく決まらなくて、うめき声がすごくて、心配で心配で仕方なくて、気付いたら二部も同じ会場内に。これは未だにネタにされるやつ(笑)
とにかく、わたしにとってかめなしくんは絶対。唯一無二の存在ってことを改めて感じた1ヶ月間。

(12) 山田涼介が気になり始める(2012冬〜)
じゃんぷのなかでも絶対ありえない、と思ってた山田涼介。ただの栗饅頭野郎という認識しかなくて、毛嫌いしてたところもあるんやけど…
少しずつ雑誌とかでも目に止まるようになり、2013ジャニワ感謝祭に行くことになり、わたしの中の山田のイメージが徐々にいい風に変化していった。
そしていつの間にか幻とされているミスヴァ3形態をどうにかして手に入れてた自分(笑)

(13) 2013年 KAT-TUNが干される
今思えば全てはチンパルのせいだったんですが…一度決まっていた夏の全国ツアーが全て白紙となり、でも理由は話してもらえず、現場のない夏に耐えきれず…

(14) JUMP矢印魂@三重サンアリーナ
前々から少し気になっていたじゃんぷちゃんたち。チケを探してもらい行きました。楽曲はシングルぐらいしか知らんのにめーーーーっちゃたのしくて、なんだこれは!!!!!!って頭をカナヅチで叩かれたような衝撃でした。

(15) JUMP担の始まり
三重の楽しさが忘れられないのと、KAT-TUNの現場がない退屈さに我慢できず、一人でチケを探して福岡までビューーーーン(笑)
もう超絶楽しくて!!!!!わたしはこの人たちを応援したい!!!!!!!!!って心の底から思った!!!!!ってことで山田担になることを決意(笑)
そこからLWMまでの約1年間の間、過去の写真とか記事とかDVDとか、いろんなこと調べて見て、じゃんぷちゃん愛しいの感情と、なんだ…なんだなんだ…中島裕翔…すごくいい成長をしてるやないか…と気づいてしまい…いつの間にやらゆーと担になってました。

(16) 2013-2014カウントダウンまでの日々
KAT-TUNとじゃんぷの掛け持ちという現状にもやもやして、周りが変わらないKAT-TUNにうれしい、やっぱりすき、っていうプラスな思考で溢れかえっている中、そんな風に思えなくて、KAT-TUNのことがすきな自分がすごくいやで、わたしの中からKAT-TUNという存在を抹殺したいとさえ思ってた2013秋〜冬。いや、一度わたしの中で彼らは死んだ。
そんな中迎えたKAT-TUN単独カウコン。初日まさかの縦花真横アリトロかめなしくん。座席ついた瞬間、涙が溢れて止まらなくて、開演してないのに号泣っていうとんでもない醜態を晒すことに。開演して4人が挨拶に出てきてからも涙が止まらなくて、でもその涙が何のための涙なのか自分自身にもわからなくて、あぁどうしようって思ったけど、公演が始まるとさっきまでの涙が嘘みたいに止まって、もうずっと笑ってて、楽しくて、かめなしくんが目の前にいて、すごくきらきらしてて、なんや、なにも変わってない。わたしも彼らも変わらない。って結論に。
一度わたしの中で死んだ彼らが不死鳥として生き返った。そんな感じ。まさにPHOENIX

(17) 2014夏、現場ラッシュ
実質掛け持ちを始めてから初めての夏。じゃんぷツアーにKAT-TUNツアーがみごとにダダかぶり。
毎週交互に現場をこなし、じゃんぷツアー全ステ。KAT-TUNツアー5公演。青い春の中まっすぐ駆け抜けた。楽しかった。至極の夏だった。


そして今に至る。

今誰担なの?って聞かれたら全力で裕翔です、って答えるけど、それは亀梨くんありきの裕翔なわけで、亀梨くんの存在なくして裕翔のことはわたしは語れないから、すべては亀梨くんが生きてるこの世界の中で物事が進んでる。

亀梨くんが生きてるこの世界で裕翔くんのことがいちばんすきです。そんなをたくです。以後お見知り置きを。